ANMELDEN朝の光が、久遠家の広大な庭園を柔らかく照らしていた。冬の名残をわずかに含んだ空気は澄み渡り、噴水の水音だけが静かに響いている。 その穏やかな景色とは裏腹に、久遠ひかるの胸は落ち着かなかった。 先日、このリビングで優に抱きしめられてから、五年前に断ったはずの恋心が再び熱を帯びていることを、ひかるにはもう否定できなかった。 自分の所属事務所が倒産し、優の経営する『FJエンターテインメント』に引き取られたあの日。 彼ははっきりと言った。「俺とは一切、私的に関わるな」「業務連絡はすべてマネージャーを通す。直接の連絡は禁止」「必要以上に会話をしない。二人きりにならない」 その言葉は、終わった恋を改めて突きつける刃のようだった。 ——この人にとって、私はもう過去なんだ。 そう思った。 それなのに、あの事故の後、目覚めたひかるに、優は違った。「俺が、絶対に守る」 あの低い声が、今も胸の奥で響いている。 あのときの優の表情を思い出すたび、胸が締めつけられる。 もう一度、信じてもいいのだろうか。 それとも、また自分だけが期待して傷つくのだろうか。 リビングの窓際でスマートフォンを握りしめる。(あれは……所属女優に向けた言葉? それとも——) 迷いは、やがて決意へ変わった。 ——やっぱり、直接会って確かめたい。 通話でもメッセージでも足りない。 優の目を見て、自分の言葉で伝えたい。「お嬢様、本当に本日お出かけになりますか?」 護衛責任者の東堂が静かに立っていた。「ええ。FJエンターテインメントへ」「車は先導・後方警戒の二台体制です」「そんなに?」「念のためです」 襲撃未遂以来、警備は明らかに強化されている。 ひかるも危険があることは理解していた。だが、どこか現実味がなかった。自分が誰かに命を狙われているなど、まだ心のどこかで受け入れられずにいた。 黒塗りのセダンは、滑るように門を出た。 発車してまもなく、運転手が小さく眉をひそめた。「……おかしいな」「どうしました?」「ブレーキの踏み込みが、少し浅い気がします」 東堂の視線が鋭くなる。「効きは?」「現状は問題ありません。ただ……遊びが少ない」 整備は今朝確認済みのはずだった。 東堂の表情から、わずかな緩みが消えた。 不穏な空気が車内に広がる。 だがそ
夜の帳が下りた頃、都内の雑居ビルの一角だけが、異質な気配を放っていた。 ネオンの切れかけた看板。 エレベーターは古く、上昇するたびに鈍い軋みを上げる。 七階で扉が開くと、薄暗い廊下の突き当たりに、黒いガラス扉が見えた。 ——SCOPE。 小さなロゴの下に、控えめに書かれた社名。 「芸能リサーチ」とあるが、その実態を正確に説明できる者は少ない。 雪城沙羅は迷いなく扉を押した。 中は意外なほど整然としていた。 壁一面に並ぶモニター。 複数の映像が映し出されている。 張り込み映像。 タレントの出入り。 高級マンションのエントランス。 誰かの日常を切り取り、誰かの弱みを探し、誰かの人生を金に換える。 すべてが“商品”だった。「いらっしゃいませ」 現れたのは四十代半ばほどの男。 柔らかな物腰だが、目だけが笑っていない。「代表の真鍋です」 沙羅は軽く頷いた。 ここへ来ることに、もう迷いはなかった。 久遠ひかるを潰す。 そのためなら、何を使ってもいい。 そう思っていた。 なぜなら、ひかるは自分の前に立ちはだかる“光”だからだ。 自分より評価される。 自分より愛される。 そして何より——藤崎優の心に入り込んでいる。 それが、許せなかった。「単刀直入に言うわ。スキャンダルって、作れる?」 真鍋の眉がわずかに動く。「対象次第ですが」「人気女優よ。今、上り調子の」「恋人は?」「いないはずよ」 そう、まだ、優とはそういう関係にはなっていないはずだ。 沙羅は、その事実にほんの少しだけ安心していた。 もし二人が正式に結ばれていたら、もっと厄介だった。 けれど、今ならまだ間に合う。 真鍋は微笑んだ。「なら、作りやすい」 その言葉に、沙羅の胸がわずかに高鳴る。 ——作れる。 その一言が、甘い誘惑のように響いた。 犯罪ではない。 ただの“演出”。 芸能界では珍しくもない話だ。 ——これは戦い。仕事。排除。 そう、自分に言い聞かせる。 本当は分かっていた。 自分がやろうとしていることが、人ひとりの人生を壊しかねないことくらい。 だが、分かっていても止まれない。 むしろ、壊れるのは相手なのだから、自分には関係ない。 そう思い込むことで、沙羅は自分の中にある醜さから目を逸らした。「具体的には?
重苦しい沈黙が、黒川エンターテインメント本社の最上階にある社長室を満たしていた。 外はよく晴れているというのに、分厚いガラス越しの光さえ、この部屋には届かないように思える。 机の上に置かれた一枚の資料。 黒川彰人は、それを三度読み返していた。 そこに記されているのは、ただの経歴ではない。 ——久遠ひかる。 父、久遠隆之。久遠ホールディングス代表。 母、一条蘭。元舞台女優、伝説的存在。 黒川はゆっくりと息を吐いた。「……冗談だろ。本当に親子だったのか……」 それは驚きというより、理解したくない現実を前にした呟きだった。 これまで、ひかるがなぜあれほど人を惹きつけるのか、黒川には理解できなかった。 演技力だけでは説明できない。 立っているだけで視線を奪う存在感。 カメラを向けられた瞬間、空気そのものを変えてしまう力。 それが——血だったとは。 一条蘭。 かつて舞台の上で、観客の心を一瞬で奪った女。 その名を知る者なら、ひかるを見て「似ている」と感じても不思議ではない。 黒川の背中を、冷たいものが走った。「裏は取れています。公表されていないだけです」 篠原が静かに答える。 黒川は目を閉じた。 芸能界の権力争いなら、いくらでも戦い方がある。 だが財閥は違う。 資本が桁違いだ。 政治も、金融も、海外も繋がっている。 敵に回していい相手ではない。 本能が警鐘を鳴らしていた。 そのときだった。 ノックもなく、扉が開く。「失礼するわね」 雪城沙羅だった。 いつも通りの完璧な笑み。 だが、その瞳だけが異様なほど鋭い。「聞いたわよ」 篠原が一歩下がる。 沙羅は机の資料を手に取った。 何気ない仕草だった。 だが、視線がそこに落ちた瞬間——表情が止まった。 久遠ひかる。 一条蘭。 母。 その三文字が、頭の中で何度も繰り返される。「……」 沙羅の指先が震えた。 違う。 そんなはずがない。 そう思いたかった。 だが資料には、裏付けられた事実として記されている。 何度見ても変わらない。 ひかるは、一条蘭の娘だった。 その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。 ——また。 また、あの女なの? 沙羅の脳裏に、幼い頃の記憶が蘇る。 母の前に立ち、必死に練習したダンス。 何度も鏡の前で繰
暴漢に襲われかけたあの日から数日。 久遠ひかるは、都心から少し離れた実家に身を寄せていた。 広大な敷地の奥に建つ邸宅は、以前にも増して静寂に包まれている。 外部の人間が容易に近づける場所ではない。 それでも警備は明らかに強化されていた。 庭を巡回する警備員。 出入りを確認する車。 以前なら気にも留めなかった小さな物音さえ、今は家全体が敏感に反応しているようだった。 もっとも―― 当の本人は、その物々しさなど気にも留めていない様子だった。 リビングの大きな窓から柔らかな午後の光が差し込んでいる。 その光の中で、ソファに寝転がったひかるは、クッションを抱えながら笑っていた。「いやぁ……まさかこんな長期休暇になるとは思わなかった」 まるで、撮影の合間に突然できた休みを楽しんでいるかのような口調だった。 その声に、向かいに座る藤崎優は眉を寄せる。「長期休暇で済ませるな。お前は襲われかけたんだぞ」「でも未遂だし。ほら、見て」 ひかるは両腕を広げて見せた。「どこも怪我してないわ。超元気よ」 確かに顔色はいい。 むしろ、ドラマの撮影で多忙だった頃よりも血色が良く見えるほどだ。 笑っている。 いつものひかるだ。 だからこそ―― 優の胸の奥にある重苦しさは、まったく消えなかった。――もし間に合わなかったら。 あの日、もし黒い車が現れるのが少し遅れていたら。――もし本当に傷つけられていたら。 もし、自分がもう少し早く気づけていたら。 そんな「もし」が、何度も頭の中を巡っている。 守ると決めた。 絶対に守ると。 なのに、現実には彼女を一人にしてしまった。 優は無意識に拳を握った。 目の前にいるひかるが笑っている。 それだけで十分なはずなのに。 生きている、無事でいる、それだけでいい。 そう思う一方で、心の奥から別の感情が膨らんでいく。 失いたくない。 この笑顔を。 この声を。 この温もりを。 そして―― この女を。 ひかるはそんな優の視線に気づくと、少し困ったように笑った。「優さん、そんなに心配しないで」 その言い方があまりにも穏やかで。 あまりにも無防備で。 まるで、優なら自分を守ってくれると信じ切っているようだった。 その瞬間。 優の中で、何かが音を立てて切れた。 もう、抑えられ
パーティー会場を後にしてもなお、黒川彰人の耳には拍手の残響がこびりついていた。 車のドアが閉まった瞬間、外の喧騒が遮断される。 静寂。 だが、その静けさの中で、黒川の頭の中だけが異様なほど騒がしかった。 ――― 一条蘭。 ただその名を聞くだけで、胸の奥に得体の知れない重さが沈む。 あの女が、なぜ今になって戻ってきた。 なぜ、あの場所にいた。 そして――なぜ、あの目で自分を見た。 黒塗りの車に乗り込むと同時に、黒川はネクタイをわずかに緩めた。 普段なら、どれほど不快なことがあっても表情を崩さない。 だが今夜は違った。 自分でも気づかないほど、呼吸が浅くなっている。「篠原」 低く呼ぶ。 助手席に座る篠原賢一が、すぐに振り返った。「はい」「調べろ」 それだけで意味は通じる。 一条蘭。 久遠ホールディングス。 「今日、あの女を財団の特別顧問に押し込んだ人間。 その背後関係を、すべて洗え」 篠原は短く頷いたが、その横顔にも珍しく緊張が走っていた。 車が滑るように夜の都心を走り出す。 窓の外では、無数の街灯が流れていく。 黒川は腕を組み、黙っていた。 大丈夫だ。 そう自分に言い聞かせる。 これまで何度も危機はあった。 そのたびに金を動かし、人を動かし、情報を消し、相手が立ち上がる前に潰してきた。 自分が追い詰められることなどない。 そう思っていた。 しばらくして、篠原が口を開いた。「黒川様……一点、気になる情報が」「言え」「久遠ひかるですが」 その名前を聞いた瞬間、黒川の眉がわずかに動いた。「久遠ホールディングス会長――久遠隆之の実子の可能性が高いかと」 沈黙。 ほんの数秒だった。 だが黒川には、その時間が異様に長く感じられた。「……なんだと?」 低い声。 しかし、その奥には明らかな動揺があった。 久遠隆之。 その名前が頭の中に入った瞬間、黒川の思考が一瞬、完全に止まった。――まずい。 最初に浮かんだのは、それだった。――これは、まずい。 背筋に冷たいものが走る。「裏は?」「ほぼ取れています。戸籍までは確認できませんでしたが、周辺情報は一致しています。そして――」 篠原は一拍置いた。「母親は、一条蘭です」 その言葉が落ちた瞬間。 黒川の中で、何かが音を立てて崩れた
都内・帝国ホテルの大宴会場。 政財界、芸能界、そして旧華族の流れを汲む名家までが顔を揃える――「東都文化振興財団 設立五十周年記念パーティー」。 格式を重んじる者たちが集う、華やかで静かな社交の場だった。 誰もが上品な笑みを浮かべ、互いの立場を測りながら言葉を交わしている。 だが、その空気が――入口のざわめきによって変わった。「……まさか」「本当に来たのか!?」 最初は、ほんの数人の囁きだった。 それが波紋のように広がっていく。 人々が一斉に入口へ視線を向ける。 ゆっくりと扉が開いた。 先に姿を現したのは、漆黒のドレス。 無駄を削ぎ落としたシンプルなシルエット。 派手な装飾など一切ない。 それなのに、その姿には圧倒的な威厳があった。 そして、その一歩後ろ。 ―― 一条蘭。 五十代後半とは思えないほど背筋が伸びている。 年齢を重ねたからこそ生まれる、深みのある美しさ。 若さを誇示するような美ではない。 時間に磨かれた気品。 自分が何者なのかを知っている女性だけが纏える、自信。 そして何より――女優として生きてきた者だけが持つ、圧倒的な存在感。 顔には、長い年月を刻んだ痕跡がわずかにある。 それすらも彼女の美しさを損なってはいなかった。 むしろ、その年月すべてが、一条蘭という女性の歴史そのものに見えた。 彼女は誰のエスコートも受けていない。 ただ、一人で歩いている。 それなのに。 人々は自然と左右に分かれていく。 まるで道を空けることが当然であるかのように。 ヒールの音が、静寂を刻む。 コツ。 コツ。 コツ――。 その音だけで、会場に緊張が走った。 かつて業界の頂点に立ち、「舞台に神を降ろす女」と呼ばれた伝説。 引退して二十年以上。 公の場に姿を現すことは、ほとんどなかった。 だからこそ、その存在は現実感を失っていた。 伝説は、記憶の中にいるものだ。 誰もがそう思っていた。 それなのに――。 今、彼女はここにいる。 生きた姿で。 しかも、かつての栄光を懐かしむような雰囲気など微塵もない。 女優を引退した女性ではない。 今もなお、女優としての誇りを胸に立つ女性。 王が現れたのではない。 女王が帰還したようだった。 その時―――。「お久しぶりです、一条先生」 声をかけ
その日、私は掃除をしていた。誰に言われたわけでもない。ただ、そうしていないと、ここにいる理由が完全に消えてしまいそうだったから。朝から冷たい雨が降っていた。窓の外は灰色で、部屋の中まで薄暗い。以前なら、こういう日は俊哉のために温かいスープを作って、帰りを待っていた。「寒かったでしょ」そう言ってタオルを差し出す時間が、当たり前にあった。でも今、その場所にいるのは私じゃない。私は、ただこの家を維持するためだけに存在している。雑巾を強く絞り、リビングの床を拭く。フローリングに映る自分の姿はぼんやりとしていて、まるで本当に“空気”になってしまったみたいだった。ソファの上には、
夜のリビングには、古い映画の音だけが流れていた。白黒に近い色調の、恋人同士が静かに抱き合うシーン。窓の外では、雨がまだ降っている。時折、車の走る音が濡れた道路を滑っていった。部屋の照明は落とされ、テレビの光だけが、ぼんやりと室内を照らしている。そのソファには、二人がいた。黒崎俊哉と、相沢玲奈。玲奈は俊哉の膝の上に横向きに座り、腕を首に回しながら、指先で彼のシャツの胸元をなぞっている。まるで、自分だけが愛されていると確認するように。俊哉の手は、彼女の背中から腰へ、ためらいもなく滑っていた。二人の距離は近すぎて、見てはいけないものを見ている気分になる。「この映画、好きな
「顔も、よく見たら大したことないし」私は俯いて、黙っていた。食卓へ落ちる照明の光が、やけに白く感じる。まるで病院の無機質な灯りみたいだった。温かいはずの食卓なのに、そこには何の温もりもない。目の前には、自分が作った料理。少しでも美味しく食べてもらいたくて、材料の少ない冷蔵庫の中で工夫した。以前なら俊哉は「うまい」と言ってくれた。それだけで嬉しかった。でも今は違う。その料理は、二人の悪意を受け止めるためだけに並んでいるようだった。「そういう顔するの、やめて。なんか……私が悪いみたいじゃない」玲奈の声が鋭くなる。その口元には笑みが浮かんでいるのに、目だけは冷たかった。
――彼に殴られたのは、これが初めてではなかった。けれど、「愛している女がいる」と、はっきり言葉にされたのは、今日が初めてだった。頬の奥が熱い。殴られた衝撃で耳鳴りがしているのに、不思議と痛みは遠かった。ただ、胸の奥だけが、じわじわと冷えていく。床に座り込んだ私を、婚約者であるはずの、黒崎俊哉(くろきしゅんや)は見下ろしていた。そこにあるのは怒りでも、罪悪感でもない。ただ、鬱陶しそうな視線。まるで、自分の生活を邪魔する“何か”を見るような目だった。「なあ、いつまでそんな顔してるつもりだ?」低く、冷たい声。まるで、床に落ちたゴミに話しかけるようだった。ひかるは答えられな







